2010/06/25

踊りの「入り口」、踊りの「出口」

稽古場でふと「踊りの入り口に立った。」と思うことがあります。それは、ストレッチの最中、あるいは即興で踊る中で、ふと現われる、上手くは言えないけれど、何となく確からしく感じられる不思議な感覚です。しかもそれが現れた時、頭の中は当惑します。「何でこんなことになっちゃったの?」と。しかし体は過ぎた「入り口」に、目もくれず「出口」まで進んでいきます。

稽古場に向かい、稽古着に着替えて、ストレッチをし、トレーニングをし、創作をし、休憩をし、再び始め、折を見てクールダウンし、稽古場を出る。
その工程の中の、どこに踊りの「入り口」が、さらには「出口」があるのか?

そんなこと、どうでもいいという考えもあるのです。「生きてることが既にダンスです。」と言う人もいるし、「ただ、踊ってる」とキッパリと言う人もいる。

自分がそこまでこの「入り口」「出口」にこだわるのは、踊る事に、何かしらの「甲斐あるもの」を見出したいからなんだと思います。そんなもん無いと潔く言い切りたい半面、どうしてもこの「甲斐あるもの」への欲求はおさまりきらないのです。

しかし「甲斐あるもの」を生みだそうとすると踊りの「入り口」は現れず、逆にショーモナイことの先にぽっかりと現われることがあります。一度出た「出口」からは入る事ができなかったり、「入り口」の先にまた「入り口」が見つかったり・・・

多くの建物は入口と出口が一緒だったりするので、この問題、本当はどうでもいいことなのかもしれません。大事なのは「中身」だろと言われれば、確かにそうかもしれません。しかし自分は今、どうしてもココに拘らなければならない気がするのです。

今回のソロダンスの初演のタイトルは『回廊』でした。めぐる廊下に出口はあるか?あるいはどこから入って行くか?

当分はこの「入り口」「出口」問題と付き合っていかなければならないのかもしれません。

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