2011/06/11

love songs in Kyoto

今日は街に出る用事があったので、ふらっとアバンギルドに寄ったら、ライブが始まる前だったので会場を下見することが出来ました。
「今度出演させていただくものですが、ちょっと中、下見してもいいですか?」
「あ、どうぞ~」
このユルい感じがいいですね。京都って感じがします。京都っていうか人ですね。いい場所にはいい人が集まるもんだ・・・と思いながら中に入ると、やっぱり狭いな!(笑)

何かいつも客として来るときはあまり考えなかったけれど、いざ踊るとなるとこんなに狭かったっけ!?ってなります。
ともあれ、ばっちりイメトレしてきたので大丈夫!本番楽しみです。

そうそう、今日で震災から三カ月経ちましたね。

京都は夏めいた爽やかな天気で、鴨川では子供たちが遊び、老夫婦は手をとり散歩しています。当たり前のように時間が流れています。平和です。

鴨川沿いを自転車で走っていたら、若い夫婦と赤ちゃんがいて、そのあまりにも当たり前の平和、当たり前の幸せを目にした時、涙が出そうになりました。

この「当たり前」を瞬時に奪われた人たちがいて、この「当たり前」は近い将来、日本人全てが奪われるであろう「当たり前」なのかもしれないと思った時、悲しくなりました。
そして、目の前の赤ちゃんを見て、これから育っていく命に対して自分はどう向き合えばいいのかわからなくなってしまいました。

目の前の現実に対して一体踊りに何が出来るって言うのか?については散々考えてきましたが、未だにハッキリとはわかりません。さらに今回の震災で、この問いは、根本的な問いの立て方から覆されたような気がして、しばらくは無気力状態、あるいはそれを隠すために、わざと忙しくしてみたり、やたらと人と会ったり、落ち着きませんでした。

そして三か月。震災があった日も今も、僕はダンスを踊っています。そして答えは何も出ていません。そんな中、来週はlove songで踊ります。

僕はもともと東京の人間なので、今も僕の大切な人、愛する人が東京に沢山います。東京は今、放射線の問題に揺れていて、その話を聞くたびに胸が詰まります。

それでも僕は京都で踊っている。

僕にとってダンスは人と繋がっていくための手段なので、これを止めてしまったらあまり人と合わなくなってしまうような気がして、踊りに何が出来るのか?という以前に生活の中に踊りが必要なのです。

それ以上でも以下でもない。
だから変わらず踊るわけですが、今や繋がっていく肝心の人が、大切な愛する人々が、危険にさらされているならば、踊りなど止めて、その人のそばにいるか、一緒にどこかに逃げた方がいいのかもしれません。

どちらにせよ、この現実を前に、やはり今までと同じように踊ることはできないのかもしれません。

だからせめて来週は、出来るだけの愛で、広い意味での愛について踊ることが出来たらと思うばかりです。

0 件のコメント:

コメントを投稿