2013/02/14

京極朋彦ダンス企画は人と共にダンスを育て続けます

いろいろな情報が怒涛のごとく流れていく今日この頃。

ツイッター、Facebook等々では、様々な情報が溢れかえって、要らん不安や、様々な感情に振り回され「Facebook疲れ」なる言葉が生まれてきたりしているようです。

加速する情報社会において、ブログですら最近は少々低速のメディアとなっています。

自分自身も「思った事と速報」はツイッター、Facebookに。
「詳細情報と考えた事」はブログにと、意識的に使い分けているような気がします。

目的に応じて手段を使い分ける。

とても合理的でありながら、どこか非情な、あるいは悲しい響きがしないでもありません。
目的に応じた様々な手段を手に入れることで、人は進化していったとすれば、逆に、その数多ある手段のせいで、目的を見失いつつあるのが、情報化社会の人の姿だとしたら、「使い分ける」という、悲しい響きの原因はそんなところにあるのかもしれません。

新作に向けての企画書を書いているうちに、なんとなくそんなことを考えていました。

今まで、自身の振付作品は、人に振付けしながら自分も出るというスタイルでやってきたのですが、昨年末初めて、自分は出演せずに人に「踊ってもらう」という機会を得ました。

そこで私は改めて、作品を作るということは、「人(という手段)を使ってダンスを作る(という目的を果たす)」ということだけではない、様々な困難の上に成り立っているのだということを知りました。

直前でダンサーが故障し、急遽、演出助手に出演してもらうことになり、そこでまさに「目的(上演)に応じて手段を使い分ける(ダンサーを変える)」という非情な決断を迫られることになりました。

もはや感情的なものを切り捨てる覚悟をしなければ、どうしようもない。
振付家として冷徹な判断をしながら、人間的には死ぬ思いでした。

それはダンサーたちも同じ思いだったと思います。
それでも人前に出なければならなかったダンサーたちは、客席で見ているだけの私よりも、どんなに辛かったかと思います。

しかしそのお蔭でダンサー達も、私も強くなった。
あの公演以降、皆の表情はがらりと変わった気がしています。
そして、それぞれがそれぞれに、自身のスタンスを見直し、己に問い、次なる道に進もうとしています。
今回の一件は、私に「人を使ってダンスを作るのではない、ダンスが人を作るのだ」と、いうことを教えてくれました。

そして、今回の事は、私の人としての経験もさることながら、ダンスの探求的にも、様々な事を教えてくれました。
今まで無意識に抱えていた、ダンサーの起用と代替性、ダンサー、あるいは振付の現前性、再現性について、様々な問題提起となると同時に、そもそも上演というものの再現性について、改めて考えさせられる結果となりました。

つまりは「その振りは、誰によって作られ、誰によって踊られるのか?」あるいは「何が体を踊らせているのか?」はたまた「観客の前で、一体何が踊っているのか?」などなど上演されるダンスについて、様々な問いと予感が生まれる結果となったのです。

そして、雨降って地固まるではありませんが、自分が求めているものが何なのか?そしてそれを得るための手段について、様々な事が明確になった気がします。

これらを踏まえて今回、新作を作らせていただける機会を得て、私は、かなりの冒険をしてみようと考えています。
既に、ちょっと自分でも予想外の展開が、生まれて来ています。

新たな体と、新たな作品を作る。地面が固まるどころか、大雨で地盤沈下を起こすかもしれませんが、今はそれでもいいと思っています。

目的に応じて手段を変える

この言葉に、非情さを感じつつも、今は、強さと確信をもって向かって行けるような気がします。

去年はカンパニー設立、KYOTO DANCE CREATION設立、横浜遠征、海外交流、新作発表と、ちと真面目すぎた気がします。

いつでも倒れるなら、前向きに。できれば踏ん張って、高く飛びたいと願っています。
そのための脚力は、去年、真面目につけ過ぎた気がします。あとは飛ぶのみ。

ぜひ、京極朋彦ダンス企画、新作にご期待ください!!
(詳細は近日ブログ等々で発表いたします)




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