ウィーン、ベルリン滞在記

≪ウィーン滞在記≫
 
 
ウィーンに来て二週間がたった今、私は今、ウィーンの代表的な劇場の一つ、volkstheaterのすぐそばにあるカフェでこの文章を書き初めている。ウィーンに到着した直後から二週間、ワークインプログレスショーイングが終わるまでは、ワークショップとリハーサルの準備(主に翻訳作業と構成、時間の使い方など)に追われていたが、ここにきて少し、気持ちが落ち着いてきたように思う。
 
今回の滞在は平成27年度、文化庁新進芸術家海外派遣事業(短期)派遣員としての研修であると同時に、ウィーンのダンスフェスティバルfifoo programのレデンスアーティストとして招聘でもある。2015年11月に私は、自作“ talking about it(初演2012年、KYOTO DANCE CREATION vol.1 於 アトリエ劇研)を現地のダンサーに踊ってもらう事になっており、今回の研修はこの作品に出演して頂くダンサーオーディションと現地リサーチ、ワークインプログレス公演主な目的である。
 
本来2015年10月に本公演が、他の団体との二本立て公演として行われる予定だったが、その団体が急遽キャンセルとなったために、劇場の問題と予算の問題で本公演は2015年11月に行われることになった。同時上演を予定していた団体の公演がなくなったため、現在私のソロダンス作品“カイロー”との同時上演の可能性を模索中である。そうなればウィーンの人々に、振付家としての私と、ダンサーとしての私を両方観てもらうことができるので、とても良い機会になりそうである。
 
ウィーンでの出来事を語る前に、まずは今回の研修に至るまでには、何より私をfifoo programのレジデンスアーティストとして招聘してくれたディレクターの佐幸加奈子さんに感謝の意を述べたい。佐幸さんのみならず、現地スタッフ、そして私が三年前、京都の若手ダンサーの作品発表と交流の場として立ち上げ“ talking about itの初演を行った、KYOTO DANCE CREATION関わって下さったアトリエ劇研のディレクター(当時)の田辺剛さんをはじめとする京都の皆様、vol.3までの三年間、関わって下さった日本各地のダンサー、振付家、スタッフの皆様、そしてtalking about it初演を踊ってくれたダンサー、京都と東京でのワークショップとショーイングに参加してくれたダンサー達、そして京都の会場を提供いただいた東山青少年活動センター所長の西田尚浩さん、東京の会場を提供していただいたAAPAの上本竜平さん、永井美里さんに、深く感謝の意を述べたいと思う
 
今回私を招聘してくれたfifoo programのアーティスティックディレクター、佐幸加奈子さんとは2011年の冬に彼女が日本での上演作品に参加、滞在中、たまたま私のダンス公演を見に来てくれたことで出会い、その後2012年、KYOTO DANCE CREATIONfifoo programは同じ年にスタートした。彼女はKYOTO DANCE CREATION vol.1で初演された‟talking about it ”を実際に観てくれており、その時から互いのフィールドでのダンスの状況や、フェスティバルディレクターとしての苦楽を共有してきた同志でもある。そしていつか国を超えた交流を実現したいという思いを互いに持、3年越しにその夢が実現したのが今回のfifoo program招聘だった。
佐幸さんの協力がなければ、私は文化庁の助成申請をすることが出来なかっただろうし、採択されることもなかったと感じいる。
2011年のたった10分間のダンス作品を通しての出会いが、ここまで発展することもあると思うと、どんな場でも、どんな時も、踊るということに命を傾けることに意義はあるのだと改めて感じている。
 
前置きはここまでにして本題に入る。実際に今回の研修で私が経験したことをひとまずはショーイングと、その後のリサーチの分まで、まとめていきたい。
 
<ワークショップとウィーンのダンス事情>
 
talking about it ”は4人のダンサーが出演する作品だが、今回のウィーンでは予定していた男性ダンサーが一人、病気でワークショップへの参加が叶わないというアクシデントがあり、彼はリハーサル初日と二日目には参加してくれたものの、その後ドクターストップがかかり、出演は叶わなかった。よって今回のワークインプログレス公演は三人のダンサーで踊られた。私は他のダンサー達のためにも、リハーサル五日目の段階で今回のショーイングは3人で踊るということを決断した。というのも他にダンサーを起用するには時間が無さ過ぎたし、今回はあくまでリサーチであるため、無理に4人で踊る必要もないと考えたからである。
 
実際、今になって思うのは、初めての状況、初めてのダンサー、そして私の拙い英語でのリハーサルにおいて、3人という人数がコミュニケーションの面でも、私のキャパシティの面でも丁度よかったように思う。彼らは非常に協力的で、私が何を言おうとしているか、推し量ってくれたし、わかりやすい英語で話してくれた。この少人数でのリハーサルが彼らのパーソナリティ、体、性格、センスなどを理解するのにはよかったと思う。
 
ワークショップは二日間開催され、事前に佐幸さんが出演交渉を進めてくれていたダンサーを含めた誰でも参加できるオープンクラスとして開催された。
実際、この期間ウィーンではimpulse tanzという世界最大規模のダンスワークショップフェスティバルが開催されているという事情もあり、私のリサーチワークショップに集まってくれた人数は少なかったが、むしろ初めてヨーロッパに来た名も知れぬ日本人ダンサーのワークショップに来てくれる人の熱意は高く、少人数だが、とてもいい雰囲気でワークショップを進めることができた。
 
ここで少しimpulse tanzについて触れておきたい。
町の中心部から電車で二駅ぐらいのところにメインワークショップ会場を構えるこのワークショップフェスティバルは、1984年(折しも私の生まれた年である!)からその原型となるワークショップが開催されており、以後30年間で、すっかりウィーンの夏の風物詩となっている。
 
impulse tanzには世界中から講師とダンサーが集まり、もともと舞台美術の製作所であった場所を会場に一日に20以上のワークショップが、一か月間、毎日開催されている。そのジャンルは様々で、バレエ、ジャズ、コンテンポラリー、Hip Hop、コンタクト、即興、ボリウッドダンスまであり、誰でも参加することができる。中にはオーディションクラスもあり、最終日にショーイングを行うクラスもある。若手ダンサーのための奨学制度も充実しており、まさにダンサー天国のような一か月間。参加者はimpulse tanz自転車を借りることができ、フェスティバル中は町中でその姿を見かける。たまたま私がカフェ出会った男性は全くダンスとは関係ない仕事をしているが、過去に二回、impulse tanzのワークショップを受けたことがあると話してくれた。フェスティバル自体が街に溶け込んでおり、タクシードライバーもすぐに劇場がわかる。この文化はなかなか日本では見られない光景だった。
 
私もいくつかのクラスを見て回り、各劇場で行われている公演も4つほど見ることができた。世界中で活躍する振付家の作品から、若手振付家の作品まで様々な作品が各劇場で行われており、21:00開演、中には23:00開演というものもあるのが日本とは違うところ。
 
私は到着した翌日、先日亡くなった室伏鴻氏の追悼公演も見ることが出来た。以前私は故人のワークショップを受講したことがあり、お酒を飲みながら少し話をさせていただいたことがあった。会場には多くの観客が集まり、様々な国のダンサー達が故人を偲んで踊ったり、歌ったりしていた。彼が如何に世界中の人々に愛されていたかを物語る、感慨深い公演だった。
 
しかしこの世界最大規模のダンスワークショップでさえ、今年は大きな助成を得られなかったらしく、海外から作品や講師を呼ぶ費用がなく、ラインナップは例年に比べてオーストリア国内色が強いものになっているというのが、佐幸さんの意見。世界的に見てダンスの置かれている状況はどこも厳しいようだが、それでも、物凄い数のダンサーが一斉に会場を行き来する姿は、圧巻だった。
 
会場のカフェではワークインプログレスショーイング公演終了後にリサーチに参加してくれることになるウィーンのダンサーのヘヨンさんと、ソンヘさんに出会った。二人は佐幸さんの友人でもあり、交流を深めることができた。
 
このようにウィーンの街がimpulse tanzで活気づいている中で、私のワークショップ第一日目が始まった。
 
<ワークショップ一日目>
 
私は以前、北京で英語でのワークショップを行った経験があったが、初めてのヨーロッパ、初めての環境に、かなり緊張していた。参加人数が少なくて逆によかったのは、ダンサー全員に目を配りながらコミュニケーションをとり、ワークを進めていくことができたことである。
 
会場はstudio improviseという小さなスタジオで、普段はオーナーの歌の先生の教室が開催されており、音楽のコンサートやギャラリーとして使われることも多く、良い意味で演者と観客が近い関係を築ける場所だった。ワークショップ、リハーサル、ショーイングまでを同じ場所で行えたことは、ショーイングに向けてのイメージ作りに非常に役立った。ワークショップのコーディネートからダンサーのキャスティングまで、佐幸さんの力によってスムーズに行ったことは言うまでもなく、この点においても本当に彼女に感謝している。
 
まずは私のダンスを見てもらうことから始めた。それが私の作品を理解するのに一番の近道であると考え、この企てはある程度成功したように思う。というのも、このことを題材に話の切り口ができたし、彼らの興味を向け、様々なレスポンスを生み出すと同時に、少しリラックスしたムードを作ることができたように思う。
初日からワークは予想していた以上に進み、彼らはこの作品における一つのトピックである‟デタラメ語”を日本人よりもはるかに速く使いこなし始めた。ウィーンは多言語国家であることもあり、子供でもドイツ語と英語が喋れるため、言語に対する感覚がとても開かれている印象を持った。のちに聞いた話では現在の50代あたりから教育方針の転換があったらしく、それ以上の人は英語が通じにくいという場合もあるという。
 
<ワークショップ二日目>
 
この日の参加者はショーイングを踊ることになるアンナ、マーティン、セツィリアの三人だけだった。もう一人予定していたリノはこの時点で既に体調を崩しており、本人は非常にやる気を見せていたが、参加が難しい様子。
 
この二日間のワークショップである程度それぞれの身体能力を把握することができた。ダンスのポテンシャルにやや不安を感じる点もあったが、ダンサーは皆、私の話(特に哲学的な話や私のダンスに対する考え方について)を非常に興味深く聞いてくれ、彼らにぜひこの作品に参加して欲しいと思った。今回の経験が彼ら彼女らにとって良いものであることを願って。
 
<リハーサル開始>
 
一日の休みをとっていよいよリハーサル初日、待望の四人目のダンサー、リノが参加。彼は幼少期に日本に住んでいたことがあり、驚くほど日本語が上手なインドネシア人で、彼とのコミュニケーションはすんなりいったが、フェスティバルディレクターの佐幸さんに言わせれば、どうやら病み上がりということもあり、普段より元気がなく、何とか集中力を奮い立たせて私の話を聞いてくれているようだということだった。
 
リハーサル二日目にもリノは参加してくれ、何とかこの作品の全ての要素にタッチすることができたが、三日目の朝、彼の症状は悪化し、四日目も参加が叶わなかったために予定していたワークを変更し、私の過去の作品で、今回の参考になるものを皆で鑑賞することにした。
今回ウィーンで取り組む作品以外の私の作品を見ることで、私なりのダンスへの考え方や、センスなどが彼らにも通じるようになり、結果的にはとても良い時間だった。
 
再演作品をただ踊ってもらうだけでなく、互いの力を持ちより、作品に新しい息吹を吹き込むには、お互いが何を期待しているかを、様々な形で寄り道しながらすり合わせていく必要がある。
嘗て私が京都で一か月リハーサルを共にした韓国の振付家、チョン・ヨン・ドゥはある日のリハーサルで、ダンサーと共に鴨川でサッカーをしたいと言い出した。これはお互いを知るのに本当に良い時間だった。コミュニケーションとは言葉だけの問題ではない。今回の私の作品‟talking about it ”はまさにそのことを主題としている。言葉から離れて、如何にコミュニケーションできるか?ということがこの作品にはとても重要なことでもあった。
 
そしてリハーサル五日目の朝、私は大きな決断をすることになる。
参加予定だったダンサーのリノにドクターストップがかかった。ウイルス性の病気ということもあり、他のダンサーに移す危険があるため、スタジオに来ることも叶わないという。
 
その日の朝、連絡を受けた私は即座に三人での構成プランの完成に取り掛かった。実は既に前日から、三人での構成プランは既に考え始めていたため、昼のリハーサルには何とか間に合った。初めてのダンサー、初めての場所での仕事には、常に予測不可能な事態が付きまとう。しかもそれが海外となればなおさらである。今、私のパソコンには「リノちゃんいる場合」というファイルと「リノちゃんいない場合」というファイルが両方保存されている。次回、ウィーンを訪れる際は前者のファイルを開くことになることを願いたい。
 
その日のリハーサルの始めに、ダンサー達に出演者の変更を伝える。この役は佐幸さんが買って出てくれた。この対処はありがたかった。というのも稽古場の舵をとる振付家という立場の人間は現場の空気を引っ張っていかなければならない。もちろん厳しい言葉も吐くが、すべては作品のためである。こういった場合、悲しい知らせを佐幸さんのような私以外の立場の人の口から伝えてもらうことで、私は舵取り役として一度落ち込んだ空気を「まったく問題ない」「三人は素晴らしいから十分やれる」「私も一緒に頑張るから、共に頑張ろう」と切り返すことができる。ものすごく細かいことだが、こう言ったパスワークは実は非常に大事なことである。自分自身ダンサーでもある佐幸さんがその日、万が一に備えて、密かに自分のトレーニングウエアを持参していたことを、私は今でも嬉しく思っている。
 
三人の構成になったことで失われたものと、新たに発見できたものがあった。四人での会話(デタラメ語会話と身体的接触といった意味での会話も含む)だと話し相手が見つかりやすいが、三人の場合だと、ふとした瞬間に一人が会話から余る。話し相手がいない孤独。これが今回の三人ヴァージョンの作品に深く影響を与えた。
 
<リハーサル六日目、言葉の壁>
 
三人での構成を細かいところまで詰めていく過程で、やはり言葉の問題にぶつかる。ある程度概要を理解し始めたダンサーはより細かい言葉で作品を理解しようと努めてくれたが、私の英語力では伝わりきらない部分があった。リハーサル前半に比べてワークの進みが遅くなり始め、スムーズにはいかなくなった。ラストシーンが、やはり言葉の問題と、三人の構成に変更になった分、私自身、明確にこのシーンの指針を出せずにいた。それでも何とかすべてのシーンに必要な要素にタッチしてリハーサルを終える。それぞれの要素がまだ作品全体に馴染んでいない。新しい構成だから仕方ないが、まだまだやるべきことが山積みである。
 
三人の中でも最も私のイメージに身体的にコミットしてくれるセツィリアでさえも、私のイメージ通りには行っていない。リハーサル後、ダンサー達には「セツィリアのダンスが最も私のイメージには近い」ということしか言えなくて情けなかったが、もしこれが日本人だったら、逆にそのことさえも言えなかっただろうと思う。
というのもこれは私自身の問題なのだが、嘗て私はダンサーの前で「わからない」とは言えなかった。そのことが今まで私を苦しめてきたという過去があり、最近は少しづつ変わりつつあるのだが、今回、その苦悩や迷いを何の障害もなくいえた。というか、気が付いたら言っていた。おそらく連日の英語によるリハーサルのおかげで、どこか私の思考もクリアーになっており、ストレートな物言いが、いつの間にか体に馴染んでいたようだ。
さらに彼らにかけられる言葉を必死で絞り出そうとした結果、出てきた言葉はストレートなものになったのかもしれない。
 
リハーサル期間、私はリハーサルと同じ時間を準備に費やしていた。その日の時間の使い方、うまくいかなかった場合のバイパス作り、そして伝えたいことを事前に翻訳し、覚えること。英語で考え、英語で伝え、英語で聞いて、まったくわからないダンサー同士のドイツ語会話にも注意を払った。私はまるで子供のような英語しか喋れなかったが、その中で子供のようにストレートに、何の衒いもない、クリアーな物言いを獲得していったように思う。
 
<リハーサル七日目とショーイング>
 
ショーイング当日。この日は昼から三時間だけ別の大きなスタジオsalon emmerでリハーサルができた。(このスタジオはとてもきれいで開放的で、その後、地元のダンサーたちとのリサーチ会場としても使用した)
佐幸さんはスタジオの鍵だけ空けてくれたあとは、会場の準備に奔走してくれたため、ダンサー三人と私、4人で使うには広すぎるほどのスタジオだった。
 
納得のいっていないラストシーンにはもっとパワフルに観客に訴えかける体が必要であり、この広いスタジオを埋め尽くすぐらいの気持ちでリハーサルすることがダンサーの助けになると予想していたが、連日の疲れもあってか、三人の体は空間に吸い込まれてしまうようだった。初めての通し稽古を終えたあと、まだもう一度通し稽古をする時間はあったが、いくつかの細かいダメ出しを早々に済ませ、私はダンサーと話をすることを選んだ。
 
彼らと出会ってまだ一週間、知らないことだらけだったし、どのタイミングで彼らが気を落とし、どこを突けばいい状態になるか、すべては手探りだったが、ワークインプログレスとはいえ妥協はしたくない。何が重要かを伝え、彼らが何を思っているかを理解したい。日本人同士の「言わずもがな」は通用しない。
大きなスタジオの隅で車座になり、ラストシーンについての話をした。私が彼らに与えた課題は「なぜあなたは踊るのか?」を文章にし、それをデタラメ語化し、そこから振りを作ってもらうということだった。彼らから「なぜあなたは踊るのか?」を聞く前に、私が「なぜ私は踊るのか?」を話した。聞きたければまず、自分から話す。
彼らから返ってきた答えは様々だった。私は彼らの文章の中でどの部分が一番重要かを尋ね、そこの動きを強調してほしいと頼んだ。強い言葉には強い力が宿る。言霊の話も少した。
 
大きなスタジオからショーイングを行ういつものスタジオまでは歩いて行けた。道中はたわいもない話。カフェ文化の盛んなウィーンの人々はコーヒーに月いくら費やすのか?とか、ここのパスタは旨いだとか、本番までの時間の使い方を相談したりしながら歩く。
気温30度を超えても湿気がないため、気持ちの良いウィーンの街を四人で歩くのは楽しかった。
 
会場に到着し、マーキング程度に通しを行い、私自身やっと、冷静に三人バージョンのこの作品を見ることができた気がする。後は休憩とリラックス、集中に時間を使ってもらった。何より私自身、冒頭でちょっとしたイントロダクションを演じなければならなかったため(自分で設定したにもかかわらず)かなり緊張していた。
 
当日会場にはダンサーの家族をはじめ、様々な人々が集まってくれた。その中にはワークショップに参加してくれたランさんの旦那さんと赤ちゃんや、佐幸さんのルームメイトのナタリーさん、佐幸さんの学校の後輩のまなほさん、そしてこのスタジオのオーナーの歌の先生と旦那さんも来てくださっていた。中にはダンサーの隣人たちも来てくれて、中々フレンドリーな会となった。
 
結果として、ショーイングは私のウィーンでの最初の仕事としては良いものだったのではないかと思う。まだまだ細かいところが気になるものの、ダンサーたちはこの作品と私を信頼し、よく頑張ってくれたと思う。同じコンセプトでダンサーを三人に変える、しかも男性一人、女性二人というシチュエーションはそれだけで様々な意味を持ち、変更には様々な困難を要したが、結果的にこの作品に新しい側面をもたらしてくれた。スペース的にも三人というバランスがよく、もし四人だとしたらその情報量を追うには客席とダンサーの距離が近すぎたと思う。
 
<ワークインプログレスショーイングを振り返って>
 
公演後の打ち上げには、多くの観客が参加してくれた。今までのfifoo programの公演において、これだけ打ち上げの参加者が多いのは珍しく、今回のショーイングがウィーンの人々に受け入れられた証拠だと、佐幸さんに言っていただいた。そして今まで4年間、多くのダンサーをウィーンに招聘してきた彼女は、今回の成功について、いくつか要因を上げてくれた。
 
一つは地元のダンサーを起用したこと。明確で誰もが触れやすいコンセプト。私自身、拙い英語ではあったが、自分の言葉でダンサーとコミュニケーションをとったこと。そして何より開演前に僕がデタラメ語を喋り、佐幸さんに通訳してもらうという、ちょっとした小芝居をイントロダクションとして設けたこと。その中で僕が一言だけ「また後で!」という意味のドイツ語を喋ったこと。これが観客を惹きつけたようだった。
 
日本のダンサーはとてもストイックで、自分の作品に強く集中するあまり、その外側の要素、つまりは作品がどのように観客に届くか?ということに気が回らないことがある。特に海外で公演する場合、テクニカルや言語、文化の違いの問題で、なかなかそこまで手が回らないということを私自身、今までに経験していた。
以前、北京で公演をした時も、現地のコーディネーターに、できるだけシンプルなテクニカルライダーを用意した方がよいというアドバイスをもらったことがあるし、実際、コミュニケーションが難しく、本番、まったく違う照明で踊らざる得負えなかった日本人ダンサーを何人か見てきた。限られた時間の中で、違う文化の人間同士が、ダンスという生の、繊細な芸術を扱うことは非常に難しい。互いの信頼を築き、同じ方向を向いて歩き出せるまでには長い時間が必要である。
 
その点、今回、文化庁の助成を受けて長期間ウィーンに滞在し、公演だけではなく、ワークショップとリサーチ、本番ではなくワークインプログレスとしてのショーイングをすることができたのは、私にとって、良い意味で様々なことを余裕を持って取り掛かれる要因になった。もちろん私自身とても緊張したし、余裕があったとは言えないが、どこかでこの作品が現地の人々にどのように受け取られ、これがどのような形で11月に繋がっていくかということを考えながら作業することができたように思う。
 
さらに11月への良い関係を築く助けになったのは、ダンサーへの謝礼を速い段階で、現地の感覚に近い額で支払えたということだ。これはアーツサポート関西からの事前支払いされる助成によるもので、大いに私の助けになった。どの国でもフリーランスのダンサーの経済状況は厳しいものがある。私自身そうであるように日々がサバイバル生活であり、入金のタイミングは非常に重要である。
 
ダンスは人間関係で成り立っている。少しのズレが関係をこじらせることもあれば、たった一言のドイツ語が、観客の心を開く鍵となることもある。そのことを今回のことで深く実感した。
 
ワークインプログレスショーイングが終了した夜、佐幸さんとそのルームメイト、ナタリーさんの住むアパートに泊めてもらった。その日の夜、ウィーンに来て初めての雨が降り、まるでパレードのような雷が公演の終了を祝すように鳴り響き、嵐が過ぎると、翌日から一気に気温が下がり、Tシャツに短パンで過ごせた気候から、一気に上着が一枚必要なほど寒くなった。
翌朝はこちらに来て初めて人の手料理をごちそうになる。どの国のどの部屋にも生活がある。当たり前のようなことが、とても幸せに感じられたのは、私の公演にも来てくれた佐幸さんのルームメイトのナタリーさんの気兼ねない優しさのおかげでもある。その日の午後は彼女が折り紙の鶴の折り方を教えてくれというので、一緒に作る。私自身、何十年ぶりに折鶴を作っただろうか?とても楽しい時間を過ごすことができた。
 
<様々なバックボーンを持つダンサーとのリサーチ作業>
 
次の週からは早速、今回ショーイングに参加したダンサー以外のウィーンのダンサー達とのリサーチ作業を進めていくことになる。
 
佐幸さんの友人のダンサー、ヨンジンさん、そしてimpulse tanzで出会ったヘヨンさんとソンヘさん、そして彼女自身もダンサーである佐幸さんがリサーチに協力してくださった。簡単なウォームアップから始まり“デタラメ語”を使ったワークに入る。
これは“talking about itの中でも使われているワークで「あなたはなぜ踊るのか?」という問いへの答えから振付を作るというものだ。
“デタラメ語”は単なるデタラメな言葉ではなく、決められた文章を強くイメージしながら、その音だけをデタラメにするというもので、ダンサーはまず喋る文章を覚え、どの単語が、どの音に変換されるかを厳密に決めなければならない。つまりは即興的に適当な面白い発音を喋ることとは違う、ある意味、動くには負荷のかかる作業なのである。
 
一般的にダンスは喋らない身体表現の芸術であるとされ、喋らなくとも伝わるとか、喋らないのに感動するとか、いう現象を引き起こす不思議な表現形態でもある。そこであえて私がこの“デタラメ語”を使うのにはわけがあり、それはいわばダンスが、喋らないでも伝わるということに、時折“居直って”いるように思うからである。
喋らなくても伝わるダンス、それを私は否定しないし、むしろそれが私の憧れでもある。しかし“ただ美しいだけのダンス”“喋った方がよっぽど伝わると感じるダンス”が世の中にはある。ならばより伝わるために、ダンスが表現として、より強いものになるためのギリギリの選択が、私にとっては、“喋る言語を抽象化する”ということだった。
 
ダンサーは役者ではないし、喋ること、そしてそれをきっちりと単語単位で動きにしていくことに慣れていない。普段ダンサーはもっと抽象的な世界に生きているから、例えば音楽だったり、リズムだったり、空間や空気感といったものと、とても親和性がある。言葉や、発話、発声といった、ある意味具体的なものに対するアプローチがなかなか難しい。
多くの場合、デタラメ語を喋るダンサーは、ただ動くこととは異なるプレッシャーを感じることになる。そのストレスが動きを変えていく。もちろんそれを器用にやってのけるダンサーも、もちろんいる。そういった場合さらに負荷をかけていくのが私の一つのやり方である。
 
さらにこの“デタラメ語”はその人の母国語がなんであるか、その人が普段、何語でものを考えているかということが大きく影響する。
私が北京でこの“デタラメ語”を使った作品を上演した時、ある中国人の観客は、私の事を韓国人だと勘違いした。彼は私がデタラメ語を話していることは理解していたが、私の発声、発話の感じがどうやら韓国語のバックグラウンドを持っているように思えたという。
 
人がデタラメに喋ろうとするとき、やはり“何語のデタラメ化”なのかという点は、大いにその発話、発声に影響する。
だからこそ今回私は様々なバックグラウンドを持ったダンサーにこのワークを試してもらいたかった。
 
更にバックグラウンドという意味ではどんなダンスをやってきたかということも大いにその動きに影響を及ぼす。基本的にこのワークでは短い文章を喋りながら踊り、それを反復してもらう。ダンサーがダンサー自身の言語で思考した文章をどのようにデタラメ化し、どのようにダンス化していくか、そこには二重のバックグラウンドが透けて見える。言語のバックグラウンドと動きのバックグラウンド。私はこの方法はある意味でダンサー自身を知るための良い方法だと思っている。
どんなに美しい振付を踊れて、どれだけ優れた身体能力を持ったダンサーでも、“その振付を踊るのはその人しかいない”というレベルにまで達するためには、時間がかかる。それはいわばダンサー自身の人生を振付に注ぎ込む作業だからだ。逆に言えば、どんなに小さく、誰もができるように見える容易い動きでも、その人にしかできない動きというものがある。私はそんな動きに興味がある。そこにはダンサー自身の語り方、考え方、言葉が含まれており、その人の人生が垣間見えるからである。
 
このリサーチ作業はダンサー達のためにも、私のためにも本当にやってよかった。この“デタラメ語”によるワークをより精製していくことで、私自身の作家としての方法論的なものが見えてきそうな気がしている。かつてこの“デタラメ語”を使った私の作品は「余興の延長」と揶揄されたことがあったが、確かにその時点では、これだけはっきりとした考えはまとまっていなかった。しかしその時からこれが私の作家としての一つの方法論になるという予感はしており、こうして海外でこのワークを試したことで、さらに内容が深まり、私自身、自信を持てるようになったのは事実ある。
 
ワークを試してもらった後、ダンサー達ともたくさん話すことが出来た。へヨンさんとソンヘさんは、9月からロンドンのラバンでダンスを学ぶためにウィーンを離れるという。ウィーンにはimpulse tanzがある。しかしそれ以外は、若い彼らをときめかせるような仕事は無いのだという。私は京都のこと、そして東京のこと、日本のことを思わずにはいられなかった。
日本にはナショナルコンテンポラリーダンスカンパニーというものが存在しない。大きな規模のダンスのフェスティバルやワークショップは数多く開催されているし、有り余るほどの情報が流通している。しかし、国際的に活躍しているダンサーでさえ、日本には仕事がない。日本にはコンテンツはあっても受け皿がないため、優れたダンサー、振付家はみな、海外に流出していく。海外で活躍して帰ってきても、実際に食っていけないのが現状である。
 
世界中のダンスカンパニーで踊った経験のあるダンサーのヨンジンさんは現在、韓国の大学で学生たちを教えている。韓国は国策としてダンスをとらえており、ダンスを教育から支えるシステムが出来上がっている。事実、世界中のダンスカンパニーに優れた韓国人ダンサーが参加するようになったのは事実であり、中国のダンサーも、近年、力をつけ始めている。
日本がこれからどのような道を辿っていくか、私自身その一翼を担っていると感じている。
おそらく今回のウィーン滞在が、私の今後の仕事に大きく影響することは確かである。
 
<ウィーン、ベルリン、そして再びのウィーンに向けて>
 
ここまで書き上げたところで、今、私はウィーン国際空港にいる。一旦、ウィーン滞在における私の仕事は一区切りし、これから一週間ほどベルリンに行き、ベルリンで行われるダンスフェスティバルTanz im Augustを見て回ることになる。
少しだけ観光し、佐幸さんと共に11月に向けてミーティングを繰り返し、実際に本番を行うことになる劇場の下見も済んだところである。
 
佐幸さんが候補に挙げてくれた二つの劇場を見る予定だったが、まず初めに下見したTHEATER BRETTに即決した。ここは100人収容程の小さな劇場だったが“talking about it”にはちょうど良い広さだった。白髪の恰幅の良い山男のようなオーナーと、上品な奥様に直接会うことが出来た。これはもう直感でしかないが、入った瞬間、ここで“talking about it”が上演される姿が目に浮かび、私はここを一発で気に入り、11月はそこで上演する方向で話が進んでいる。
 
今回ワークインプログレスショーイングを行った場所は劇場ではなかったので、音は私自身がパソコンから簡単なオーディオを通して出していたが、次回は照明も入る。テクニカルをどれだけ詰めることができるか?ハードルはさらに上がることになる。しかしいつだって、どこまで行ったって、何かを成し遂げるというハードルは上がり続けるものだ。それらをすべて乗り越えるには人生は短すぎる。ならばその一つ一つを如何に飛び越えるか?その跳躍一つ一つに何を残すのか?が問題になってくる。
 
実は私がベルリンから帰ってきたウィーン滞在最終週に、もう一度ワークショップを開催するという案が出た。8月の夏休みでウィーンにいなかった地元のダンサーが帰ってくるこの時期に、また新たなダンサーとの出会いを求めて、ワークショップを開催するのはどうか?という佐幸さんの提案に私も賛成した。次回の11月の滞在も、少し伸ばせないかどうか、検討中であり、本当にありがたいことである。
 
帰国まであと二週間。長いようで短いウィーン滞在も終わりを告げる。このままずっとここに居たいような、一刻も早く日本での仕事に取り掛かりたいような気持ちで、私はひとまずこの文章に区切りをつけようと思う。残りの二週間のことは、また別の文章でまとめることにする。
 
2015826日 ウィーン国際空港にて 京極朋彦
 
 
 
 
≪ベルリン滞在記≫
 
2015826日から31日まで、私はドイツの首都であるベルリンに滞在した。
主な目的はベルリンのダンスフェスティバルTanz im Augustを見ること。そしてベルリン在住の友人を尋ねることの二つだった。
ウィーンからベルリンテーゲル空港までは飛行機で1時間10分ほどで、今までの三週間のウィーンの出来事に思いをはせる間もなく到着した。
 
空港からバスと地下鉄を乗り継ぎ、宿泊させていただく日本人宅へ。ここは、ベルリン在住の友人から教えてもらった、ベルリンの日本人掲示板で探したお宅で、もちろん尋ねるのは初めてだったが、なんとこのお宅のご主人がベルリンのオペラであるDeutsche Oper Berlinで歌われている歌手の方で、行ったその日には、ベルリン在住の日本人ピアニストの方が遊びに来ており、思いがけず日本食の晩御飯をごちそうになった。家は主人が空いている4部屋を貸しており、それぞれを様々な国籍の方が借りていた。
その日は思いがけず日本人の手作り料理を振る舞っていただき、なんと週末のオペラのチケットを格安で譲っていただけることになった。
実はこの演目「ロミオとジュリエット」がドイツのダンスカンパニー「Sasha Waltz」によって演じられるものであることを、私は後から知った。ベルリン初日は思いがけない幸運に恵まれて幕を開けた。
 
翌日、街を知るために朝からジョギングをし、ベルリン市内の公園を巡り、ベルリンフィルハーモニーの劇場や現代美術館、シュピレー川やベルリン戦勝記念塔、新旧の教会を巡り、地下鉄の路線図も手に入れることが出来た。
そして昼から目当てのTanz im Augustのプログラムを見に行った。AKADEMIE DER KUNSTEというところではRosemary Butcherというジャドソンチャーチの時代から活動している振付家のアーカイブ映像や資料展示を見ることが出来た。この展示は予想以上に興味深く、ビデオ作品など含めて2時間ほど見入ってしまった。コンテンポラリーダンスの創生期の息吹を感じられるとても刺激的な展示だった。
近くの湖畔のカフェで休憩。途中小さな町の図書館にも立ち寄った。蔵書の少ない一軒家のようなかわいらしい建物には中庭があり、皆、思い思いに読書を楽しんでいる。時間の流れが緩やかで、穏やかな夕暮れ。
夜はベルリン在住の友人と共にTAO Dance Theatreという中国人振付家の作品を観劇。その会場で、私が京都で活動していたころにお世話になり、現在文化庁の海外研究員としてベルリン滞在中の日本人の方とばったり遭遇し、友人を含めた三人で晩御飯を食べた。ベルリンのダンス事情や生活事情などを、実際住んでいる日本人から聞くことができる貴重な夜は、その後、終電を逃すことになるのだが、既に秋の気配が漂うベルリンの街を歩いて家路につくのは何とも気持ちの良いものだった。
翌日、これもベルリン在住の日本人ダンサーに教わったダンススタジオにレッスンを受けに行く。なんと1時間半のレッスンが6€という安さ。コンテンポラリーダンスの講師も日替わりで、バレエからキッズクラスまで、毎日何かしらのクラスがある。日本では二分の一の狭さのスタジオで三倍の料金を取るクラスもあると思うと非常に羨ましい限りだった。
その日の昼は、これもまたベルリンに住む大学時代の後輩とランチをすることに。なんとそこでも思いがけない出会いがあった。
2006年、兵庫県伊丹のアイホールで上演された笠井叡氏の振付作品“蜃気楼”にダンサーとして出演されていたドイツ人男性が私の後輩の友人で、共に食事をすることが出来たのである。彼はドイツでバレエを学ぶ日本人をサポートする仕事をしており、自身は舞踏も踊るという人で、普通に日本語で会話が出来た。彼には逆に日本のダンス事情や教育事情をいろいろ聞かれ、ドイツとは大きく状況が違うことを実感した。彼は本当にバイタリティー溢れる人で、驚くべきことに現在、坪内逍遥の舞踊論をドイツ語訳することに挑んでいるという。日本という国が世界で如何に特徴的かということを彼を通して感じることが出来た。
その後、大学の後輩に飛行場跡地の公園Tenpelhofer Feldに連れていってもらった。とにかく広大な広場で、しかも何もない。何度も再開発案が立ち上がるのだそうだが、近隣住人の反対で中止になっているという。中は本当に自由空間で、畑があったり、様々なスポーツを楽しむ人たちがいる。空港のターミナルビルはそのまま残されており、たまにそこでイベントが行われるという。これだけの土地がありながら、小さな野球場がおまけの用にあったのがサッカー大国ドイツの野球ファンの肩身の狭さを物語っている様だった。
その日の夜も別の劇場でTanz im Augustのプログラムを観劇。子供からお年寄りまで出演する作品で日本にはなかなかないテイストの作品だった。床にはベルベットのような絨毯が敷かれ、ダンサーは皆靴下を履き、滑るように滑らかな動きが印象的だった。
翌日はドイツはデュッセルドルフで一級建築士として働く大学時代の友人と待ち合わせて、建築ツアーへ。彼女のガイド付きで様々な建築物を見て回ることが出来た。今年はベルリンの壁崩壊から25周年ということで、当時壁が存在し、現在はショッピングモールのアーケードとなっている場所では25周年の展示がされており、ドイツの辿ってきた歴史を垣間見ることができた。
そしてその夜は彼女の分もチケットを譲ってもらった、家の主人が出演するというオペラを見に、Deutsche Oper Berlinへ。さすがドイツの主要オペラの一つ。まず地下鉄の駅の名前がDeutsche Oper駅であり、ほぼ駅から直結。ベルリンにはオペラがDeutsche Operも含めて三つもあるらしいが、Deutsche Operはその中でも一番格式高いオペラで、街で見かける他のオペラ劇場とは一線を画した威厳が伝わってくる。観客も、どことなく品のある人々が集い、庭のレストランや劇場内のラウンジで観劇前の期待に胸を膨らませている。劇場ではベルリンのダンススタジオで知り合った日本人ともあうことが出来た。
作品はオペラというよりは、ほぼダンス作品だった。9割がSasha Waltzのダンサーによるダンスの応酬。歌手やコーラスにも、ところどころ振付がなされ、もちろん生声、生演奏で、本当に贅沢な時間を過ごすことが出来た。夕食を済ませ、一日付き合ってくれた友人を見送り帰宅。彼女は大学時代、私と同じミュージカルサークルに在籍していたバレリーナであり、私がサークルを早々と辞めてから約10年ぶりぐらいに会ったのだが、まさか再会がベルリンだとは思いもせず、時の経過の速さと奇妙さについて思いを巡らせた。
翌日は日曜日ということもあり、ダンススタジオのレッスンを受けた後、これまた違う湖へ行き、ウィーンのダンサー達に送るメールの翻訳作業を進めた。実は来週ウィーンに戻った際に、新たなダンサーとの出会いを求めてワークショップをすることになっていて、その準備も同時に進めていた。
普段、走るばかりで散歩するという習慣がないのだが、知らない街を歩くのは、すべてが新しい発見(誤解も含め)に溢れており、様々な想像力が喚起される。これが自分と自分のこれから作る作品にきっと良い影響を与えてくれることと思う。
そしてあっという間にベルリン最終日。まだ行ったことのない方角へ足を延ばし、街の中で様々な小さな発見をした。ベルリンはドイツの首都ということもあり、ビルの立ち並ぶ都会であったが、同時に大きな公園や川、自然が至る所にある街であった。様々な刺激に溢れた街でありながら歴史の重みも感じられる。しかし私は、観光名所や、観劇ももちろん面白いのだが、例えば石畳の修復を手作業でする人のハンマーの響きであるとか、知らない鳥の鳴き声、小さな教会の窓から漏れる光など、とても小さなことたちに強く心を引き寄せられた。建物の中に作られた戦没者慰霊の銅像は、天井が丸くくり抜かれ、雨が降れば雨ざらしになる。昼に真上から降り注ぐ太陽に照らされた銅像の傍らには、そっと一輪のユリの花が添えられていた。雨の日も風の日も、毎日そこに花を添えに来る人がいるのだろう。そんな小さなことが私の短いベルリン滞在を細やかに彩ってくれた。
家に戻り、荷物をまとめ、今回本当にお世話になったお宅の主人にお礼とお別れをして、空港へ。搭乗手続きを済ませて、今、私はこの文章を書いている。来週からは再びウィーンでリサーチを再開し、一週間後には日本へ帰る。ベルリンでの経験がいつか、ふとした瞬間に私の脳裏をよぎる日を楽しみにしながら、まだまだ暑い夏の終わりと共に、この文章を結ぶことにする。来週から、また新たにウィーンでダンサーとのワークが待っている。
                          
2015年8月31日 ベルリン、テーゲル空港にて 京極朋彦
 
 
 
<再びのウィーンワークショップ>
 
ベルリンからウィーンに戻り、私は早速最後のワークショップの準備に取り掛かった。このワークショップは、前回のワークショップ、リハーサル、ワークインプログレス公演に参加してくれたダンサーの他に、ウィーンで活動するダンサーとの新たな出会いを求めて開催したもので、参加者は初めて私のワークに参加するメンバーだった。
ワークショップ当日は実はウィーンの西駅に大勢の難民が到着するという日で、参加を予定していたダンサーの一人はその支援のために参加できないというメールをくれた。日本では中々ない欠席理由だったが、ドイツが難民受け入れを表明した今、ウィーンに住むアーティストの意識の高さを感じずにはいられなかった。
 
私が日本を離れてから、国会には人が押し寄せ、この日のワークショップ翌日には新宿にも人があふれたという。もうすぐ私は日本に帰る。私の帰る国は、果たして私の思っている国だろうか?ふとそんなことを思わずにはいられなかった。
 
当日集まってくれたのは、ワークショップの二日前、ディレクターの佐幸さんの以前の職場であるWERK Xという劇場でパフォーマンスを見た時に出会った音楽家や、地元のダンサー、振付家、これからウィーンでダンスの大学に進学するという高校生まで、様々な人がワークに参加してくれた。
彼らには私がウィーンでワークインプログレス公演をした後に、発展させたいと思っていたシーンのワークを試してもらった。それは“どのように死ぬか”というワークで、どのような状況で人は死ぬのか?を床に寝るという行為に置き換えてもらい、身体的にどのような手順、どのようなシチュエーションで床に倒れるか?を考えてもらうというワークだった。
さらにはいくつかのバリエーションを試すために一度倒れたら、再び起き上らなければならない。どのように起き上るか?何が体を起き上らせるか?
それぞれに時間をかけて探ってもらい、倒れては起き上るという動きを3パターン考えて実践してもらった。それぞれの体を見て、その説明を聞いて、私がそれぞれにちょっとした演出をつけていく。
ワークショップではもちろんデタラメ語のワークもやっていたので、デタラメ語でも喋ってもらう。自分がどのように倒れるか、その方法をデタラメ語で解説しながらやってもらう、起き上る動機を歌にして歌いながら起き上ってもらう。なんとなく体の動きだけで処理してしまっているところを詩にしてデタラメ語で朗読してもらう。立ち上がる時の効果音をデタラメ語で叫んでもらう。そして他のダンサー達の動き、声、体をよく聞いて、自分の動きの動機にしたり、応答したりする。場所も自由に移動してよい。様々なタスクを与えながら、最後は参加者全員で20分に及ぶセッションをした。
それはダンスという概念を超えて、人の営みとして美しいものだった。私はドイツ語がまったく分からないので、ダンサー同士がドイツ語で会話し始めると、途端に会話に取り残されてしまう。しかしデタラメ語を喋りながら踊るダンサー達を見ていると、不思議と私自身、彼ら、彼女らと共に話し、共にいる感覚が芽生えてくる。
 
意味と意味を突き合わせる意味不明と、無意味と無意味を突き合わせる意味不明は確実にその質が異なる。私はこのワークショップでデタラメ語を喋るという行為が、その人の体を変えるということを改めて実感した。このワークは次回ぜひ私の作品に参加してもらうダンサー達にも試したいと思った。
 
こうして、ギリギリまで私の研修のためを思ってワークショップを企画してくれた佐幸さんのおかげで、最終ワークショップはとても実りのあるものとなった。
 
 
 
<最終章>
 
ベルリンからウィーンに帰ってきて、なぜか安心した感があるのは、ウィーンの生活に慣れたからなのか、私のもともとの“都会嫌い”からなのかはわからないが、(ベルリンは都会で殆ど眠らない街だった)とにかく一息ついた感じがする。地下鉄の乗り方も、買い物の仕方もわかるし、小銭をぴったり払うこともできるようになった。毎日のように街をジョギングし、観光地以外に小さなお店やギャラリーも回ることが出来た。そして日本への帰国が迫ってきている今、私が求めるのはやはり友人や家族である。
人は人なしには生きていけない。私は一刻も早く、家族や友人と会いたいと思う。やはり一か月以上違う土地で生活していると、ふるさとが懐かしく感じられる。
 
ウィーンで出会ったフリーランスのダンサーで、もう長い間、自分の家を持たず、公演ごとに世界各地を転々としている人に、「自分の故郷が懐かしくないか?」と尋ねてみてら、即座に「NO」という答えが返ってきた。彼とはたった一晩、食事を共にし、終電を逃して二人で夜道を歩いて帰っただけで、彼のことを私はほとんど知らないが、彼は独特の雰囲気で、常にエンターテイナーであり、ジョークと皮肉に溢れた人だった。
そんな彼が、夜道でそれぞれの方向に分かれる際、初めて大きなあくびをして「少し疲れたな」といった。翌日には彼はウィーンを離れ、また新しい現場で仕事をするのだという。別れ際、彼の背中は私に、「あなたはどこに帰るのか?」と問いかけているようだった。私はもうすぐ日本に帰る。しかしその後どこへ向かうのかはわからない。もちろん東京に家はある。しかし私は最終的に、どこに帰っていくのか?
 
ダンスが私をここまで導いてくれた。二十歳でダンスに出会っていなければ、今私はここにはいない。ダンスに必死でしがみついてきた十年。この先ダンスは私をどこに連れていってくれるのか?あるいはダンスが私を縛り付け、動けなくすることもあるだろう。
今までの十年、そしてこれからの十年を思うとき、今回のウィーン、ベルリン滞在は私にとって大きな通過点であると感じる。それが何なのか?今はわからない。そして必死でしがみついてきたダンスを手放す日がいつか来るかもしれないとも感じる。しかしそうなったとしても、私をここまで運んでくれたダンスが、その後の私の人生の軌道を描いていくことは確かだ。
 
ダンス以外に興味のあることは何ですか?とディレクターの佐幸さんに尋ねられた。即答はできなかったが、今、私の中にはおぼろげながら育てることの喜びを求める気持ちがある。それが農業なのか教育なのか、あるいは家族や子供なのかはわからない。
 
嘗て私は若手振付家のための作品発表と交流の場として京都でショーケースを企画、主催したことがある。その時は、自分も若手振付家の一人であり、まったくもって“育てる”というような立場ではなかったし、自分のことで必死だった。ダンスを通して自分の人生に必死でしがみついて、殆ど見切り発車で三年間、ショーケースを続けたのだが、結局、大きな意味での結果は残せなかったと思っている。それは私が自分のことに必死すぎたというのが一つの原因でもある。
 
ダンスを手放す日が来るかもしれないと書いた。
それは完全にダンスとは無縁の生活を送るという意味ではなく、必死でしがみつく必要がなくなるという意味かもしれない。両手で力を込めて掴んで離さずにいたものを、片手で柔らかく握れる日が来るという意味かもしれない。そのことが実は私のダンスをより良いものにするかもしれない。
 
事実、この半年間、私は、ダンサーとしての仕事をしていない。もちろんトレーニングは続けているが、振付家としての仕事がメインで、人の作品に出演することをしてこなかった。すでに私の片手はダンスから離れているのかもしれない。そのことに以前は臆病だった。常に何かに乗っていないと不安だった。しかし今は、それほど不安ではない。
振付家としての仕事にもやっと、自己実現以外の喜びを見出せるようになってきたところである。
ディレクターの佐幸さんが“ヨーロッパのダンサー、振付家は常に余力を残しておく印象がある”と教えてくれた。もう十年以上ウィーンに住み、日本から数多くのアーティストを招聘し、日本でも公演経験のある彼女の言葉はとても印象的だった。日本人は集中力があり、精根尽き果てるまで目標に向かっていく。それが日本の世界に誇るクオリティーを作り上げているともいえるが、公演が終わった途端、もう余力がない。その次へ継続していく力が残されていない。その点、手を抜くわけでは決してないが、必ず少しの余裕を残しておくスタンスのヨーロッパの人々はその分、少しだけ人生の楽しみ方を知っているように思える。もちろんこれは人によるが、確かにうなずける話ではある。
 
今回の一か月に及ぶヨーロッパ滞在で、私が一番学んだことは、私自身のことだったと思う。ダンスとの関わり方、そのスタンスについて学ぶことが非常に多く、それらは大きな鏡となって私自身を映し出すこととなった。
私には正直、まだ日本で大きな影響力のある仕事ができるほどのキャリアも実績もないが、私自身が変わっていくことで、私の作品も大きく変わり、少しずつではあるが私の回りの人々との関わりの中で、育っていくものがあるということを信じている。
“ダンス以外で興味のあることはありますか?”このことに応えることは、まだ私には難しい。しかし私がおぼろげに答えた“育てる”という言葉の意味は、小さな形から実現するかもしれない。私と、私が今、会いたいと思っている家族や友人たちとの間で。
 
明日、私は日本に帰る。到着は二日後。そして10月再びウィーンでのクリエーションのためにここに戻ってくる。この街、ここの人々、ここのダンサー達との間にも、何かが育ち始めていると信じたい。私は早くも次回、ウィーンを訪れ、再びダンサー達とリハーサルをする風景を思い浮かべている。それに備えて私は、私自身の言葉を育てていかなければならない。日本に戻る一か月間、今まさに政治が大きく変わろうとしている母国で、私は何を考え、どのような言葉を育て、何を彼らに伝えるのか?これはもはや単なる国際交流ではなく、私自身が問われる機会である。
デモに参加する人々、隠蔽される事実、言いたいことが言えなくなるかもしれない未来が日本にも迫っているのを感じる。そんな中で私が今までずっと考えてきた“デタラメ語”は、より大きな意味を持ってくるだろう。その切実さをどのように彼らに伝えることが出来るだろうか?あるいは私自身どこまで切実に考えられるだろうか?不安と期待を抱えながら、この文章を終えようと思う。
 
佐幸さん、私はダンス以外のことも、ダンスを通じて考えていきます。ダンスは私にとって思考の入り口です。出口は無いかもしれないけれど、問うことによってダンスが生まれ、その思考が育まれ、他者に、あるいは緩やかに、次の世代に受け継がれていくと信じています。私が言った“育てる”という言葉は、自分自身に向けられた言葉でもあり、他者に開かれた関係性でもあるように思います。何より私自身、まだ、問い始めたばかりです。
 
201596日 ウィーンにて 京極朋彦

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